雑記帳(Ⅺ)                       

 

川上純平         2016・5・12〜

 

 

2016年5月12日(火)

 

来週15日の日曜日はキリスト教会の暦(教会暦)で「聖霊降臨日(ペンテコステ)」とされています(一般的なキリスト教理解での「聖霊降臨日(ペンテコステ)」については雑記帳の2012年5月30日(水)の項目を参照)。しかし、私たちはどのようにして「聖霊」の働きを目で確認出来るのでしょうか。「聖霊」そのものを直接、目で確認したという話は私も聞いたことありませんが、しかし、人がキリスト教信仰を持つに至るとか、聖書のみ言葉を感銘深く読むとか、結果として教会が建てられるとか、「キリスト者が集まったとある会が大変素晴らしい会であった」との発言がある時に「聖霊」の働きがあると認められるとされています。逆に以上、述べたような時に必ずしも「聖霊」の働きがあると認められるとは限らない時があります。キリスト教信仰を「アクセサリー」のようなものと考えたり、キリスト教会で聖書の神とも、キリストとも関係なく何か勘違いして感動するとか、キリスト教会で別の目的で集会等を行う時に「聖霊」の働きが蔑ろにされ、神の力も働かないという時もあります。さらに「聖霊」の働きが促される、あるいは促すために行われるということもあります。また教会によって、教派によって、それが拠って立つ神学や宣教方針の違いから様々な解釈や方向性があります。いずれにしても、それが聖書の神の力やキリストの力であるなら、私たちはそれを完全に知り、見聞きすることが出来ないということについても考えるべきです。それこそ神の奇跡を認めるということです。

実践神学」は、実際に歴史的に存在するキリスト教会に関する様々な事柄を学問的に扱うわけですが、学問的に扱うということゆえに、必ずしも、その理論がキリスト教会で認められるとは限らないということがあります。学問であるゆえの限界です。キリスト教会自身にそのような決まりがないからとか、学問であるゆえに誰でも理解出来るものとは限らないからだけではなく、人間の集りであるゆえに、それでは対処出来ない様々な事があるからです。キリスト教信仰を持ちつつ自分たちで考えて行う場合もあります。

 私が現在、牧会伝道を行っています藤崎教会は、最初は本多庸一、日本基督教団弘前教会の影響の中でキリスト教会として生まれ、後にメソジスト派、そして日本基督教団に加入しました。今年で創立130周年になりますが、戦後は、長く「農村伝道」を行って来た歴史のあるキリスト教会です。「農村伝道」と聞くと、田んぼや畑の真ん中で、あるいは農家の人々に向けて伝道を行うというイメージを持っている方がおられるかもしれませんが、これには様々な形があります。つまり、必ずしもそうではなく、農村の近くでの伝道とか、農家が多い町での伝道とか、近代化しつつある町での伝道等を含みます。特に日本基督教団では「農村伝道神学校」を卒業した牧師たちがそれらを率先して行なっています。これらは「教会と国家」という観点から考える時に、単に農家のためにということでは「政教分離」が守られていないのかという誤解を生み出しかねません。ですから、そうではなく、福音書のイエスがそうであったように貧しい人や差別されている人と連帯するということやその町の発展、歴史と共にキリスト教会が歩むということに重点が置かれる場合もあります。藤崎教会も「農村伝道神学校」を卒業した歴代牧師たちの「伝道」の歴史があります。キリスト教会として活動していくためにはその土台が大切であること、それが備えられることを信じて、そうなるように祈ることが大切であること、時折、来客があったり、様々な申し出があったりすることを神に感謝せざるを得ないものであると想わされています。

 それでは「宣教」は「伝道」とどう違うのでしょうか。しばしばこの二つの言葉は同じ意味で用いられる場合もあります。しかし、通常、「宣教」はキリスト教会の会堂での礼拝等に限定しない広い意味で「伝道」を行う意味で用いられます。特に明治時代、プロテスタントが日本に伝えられた当初、教育、医療、社会福祉、文書執筆出版、政治、経済活動等を通してアメリカ等からの宣教師が活躍した時代がありました。現在もキリスト教の会堂での礼拝等に限らない「宣教」が日本人キリスト者によって日本各地で行われています。

最近、組合教会に関する冊子として『会衆主義パンフレットB 会衆主義の使命 キリストに与えられた務めと希望(会衆主義研究会 監修:水谷誠)』がキリスト新聞社から出版されました。日本基督教団の旧教派の一派でもある「会衆主義」についての理解を深めるためのシリーズ本の三冊目です。中には大林浩名誉教授(ラトガース大学)、原 誠教授(同志社大学神学部)、一條英俊氏(信徒:日本基督教団札幌北光教会)らの小論、講演記録、提言が収録されています。ちなみに一條英俊氏はカール・バルトディートリッヒ・ボンヘッファーの神学と会衆主義について執筆しておられます。

またこのところ、神学者カール・バルトに関する本が日本語で立て続けに出版されています。カール・バルト生誕年である1886年との関わりが考えられるかもしれません。時間がなくてなかなか読むことが出来ませんが、目を通していきたいと思います。

4月に発生した「熊本地震」で甚大な被害に遭われた地域の方々に心よりお見舞い申し上げます。現在、被災地でボランティア等の救援・支援活動に励んでいる方々の疲れが癒されますように。私が属する日本基督教団でも、また同教団九州教区でも救援募金を集めています。

3月は「世界祈祷日礼拝」(弘前カトリック教会)、「東日本大震災5年を覚える礼拝」(日本基督教団五所川原教会)が行われ、月末、藤崎教会では「イースター礼拝」(「イースター(復活日)」については雑記帳の「2012年4月30日(月)」の項目を参照)を行い、新年度の歩みを始めました。また2016年度に入り、4月に教会の一年間の集会や活動を含んでの宣教を振り返り、今年度の歩みについて考え話し合う「教会定期総会」も行われ、北西地区の「定期総会」にも出席しました。5月には奥羽教区の「定期総会」に出席し、6月には藤崎教会で大人と教会学校、幼稚園、その卒園生ら、子供たちが一緒に行う合同の礼拝があります。

3月に行なわれた地区の牧師の集りで、ある牧師から「宗教法人」という法人格が一般的に誤解されているということ、政府が「宗教法人法」の中身を変えようとしており、その内容によってはキリスト教会に対する圧力になる。それゆえに、そのような動きに対して異なる宗教で協力して行動するのも一つの方法であるというお話をお聞きししました。キリスト教会にも、そのキリスト教会が属する宗教団体が作った規則を土台とした教会独自の規則とこの世の法的な届け出や手続き等のための宗教法人の施設としての規則との二つがあり、規則を変更するのには手続きが必要です。この世の中にあるキリスト教会について考えさせられました。

牧師館の玄関横にあるプランタの「ホウレン草」が見事に育ちました。昨年の秋に土に種を植え、冬の間、外に出しておきました。雪の中で耐え忍んだ「寒じめ」の「ホウレン草」です。今年度、自分にとっての最初の収穫物でもあります。農家の方々の農作業の上に主なる神の祝福があり、秋には見事な収穫がもたらされますようお祈りします。

 

 

2016年9月15日(木)

 

 今年の夏は、世界が「リオ・オリンピック」で盛り上がった夏でしたが、同時に、国内では障害者福祉施設で入居者が殺される事件がありました。本当に悲しい事件で、日本の社会、また一人一人が障害者、人権・社会福祉について考えさせられたのではないかと思います。またこの度の台風で甚大な被害に遭われた方々に主の慰めと癒しがありますようお祈りします。

5月28日に当サイトの「リンク・ぺージ」にも、リンクされていますが、「君が代」斉唱の際に不起立の態度を取ったことで2007年に停職6ヶ月処分を受けた東京都公立学校の元教員の河原井さん・根津さんの停職処分を取消し、二人に損害賠償を行うよう東京高裁が東京都に判決を言い渡しました。5月31日にはそれを不服とした東京都側の上告を最高裁判所が退けました。およそ七十年以上前の戦時中を想い、「思想・良心の自由」が認められたことを嬉しく思います。戦時中、国家・政府による欺瞞に国民が騙され、宗教も含めて戦争に賛成させられていったことを考えさせられます。また忘れられてならないのが福島県の甲状腺ガン患者が確定されていない現状があるということです。五年半前のあの福島第一原発放射能事故によって健康を害された方々がおられるという事態の深刻さが日本各地で真剣に受けとめられているのかどうか疑問です。

 9月4日にはマザーテレサがローマ・カトリック教会から「聖人」とされました。「聖人」はキリスト者(クリスチャン)が礼拝するものではなく、崇敬するものであるとされていますが、プロテスタントの教派では、ルター派だけが「聖人」を認めています。もっともマザーテレサはキリスト者としての、また人間としての、その行いが多くの人々に良い影響を与えています。

8月に北西地区の牧師たちの集りである「地区教師研修会」が行われ、伊藤悟氏(青山学院大学宗教部長・同大学教育人間科学部教授)から「次世代への伝道」という題でお話をしていただき、キリスト教主義学校の現状と教会へと導く伝道について学びました。9月上旬には奥羽教区の牧師たちの研修会である「教区教師宣教セミナー」が行われ、中島基道氏(関西学院大学神学部教授)から奥羽教区の宣教方針「希望に生きる教会」を主題として、特に、死、悲しみ、罪の支配するこの世界で聖書に根ざして希望を語る教会の宣教とは何かについて学びました。

 9月中旬には、夏期休暇を取り、大阪にある日本基督教団天満教会会堂の見学をさせていただきました。この教会は、以前、説明した浪花教会と同じく初代牧師は沢山保羅で、1879年に建てられ、日本基督教団が合同によって成立する前は組合教会に属していた教会です。特徴的な建築の会堂で、現在、登録有形文化財に登録されています。同時に京都にある日本基督教団京都葵教会で出身牧師として礼拝説教奉仕の機会を与えられました。私が同志社大学神学部の神学生時代に二年間ほど通っていた教会です。この教会は、そもそもは1907年に救世軍の教会として建てられた教会で、来年で創立110年になります。会堂内の洗礼盤や十字架が清水焼で出来ている教会です。懐かしい方々、初めてお目にかかる方々にお逢いし、礼拝後の交わりで、二十数年ぶりに教会名物の「きつねうどん」をいただきました。休暇を利用し、世界文化遺産に登録された京都の古寺への観光も行いました。宗教が社会や地域に根ざすということは、どういうことかについて、これは現代のキリスト教の幾つかある宣教姿勢の一部に過ぎないかもしれませんが、地域との適切な関わりとは何なのか考えると興味深いものがあります。しかし、それは宗教と国家の関係とは別のものです。欧米もそうですが、日本も時代によっては国家が宗教を決めていた時代がありました。現代においては『日本国憲法』によって「信教の自由」が認められています。

 その際に「教区教師宣教セミナー」での中道基道氏の講演を聞いて思い出しましたが、多くの方が発言しているように、宣教の立場の違いとして、カール・バルト的(カルヴァン的)な立場と現代のエキュメニカル運動的な立場があって、前者だと、円の中心にキリスト、その周りに同芯円上に教会、さらにその外側の円にこの世〈社会〉があって、キリストを中心に伝道や宣教が行われることになります。「神の国」がこの世に実現していくとする立場で表されるわけですが、現代のエキュメニカル的(世界教会的)な立場であると、まず大きな円があって、それが聖書の神様が、この世全体をお造りになって愛された、つまり、主イエス・キリストがおられるこの世(社会)を表わしていて、その円の中に、つまり、この世の中に教会や他の諸宗教、思想等があるという図の立場になります(図1を参照)。伝道や宣教における文化、社会、地域性と聖書の御言葉(みことば)の関係を考えさせられます。

 藤崎教会では、今年が教会創立130年であることを覚え、その記念事業の準備を進めています。また7月下旬に日本基督教団黒石教会の主催で難病の子供たちの願いをかなえる団体「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」の理事を務めておられる大野寿子氏の講演会を当教会の会堂で行いました。同時に藤崎教会の教会学校では日帰りキャンプの「夏の集い」を教会会堂と幼稚園園舎を会場にして行いました。子供たちと共に旧約聖書ヨナ書に登場する大きな魚を作って遊び、聖書の神様の恵みを想う一時でした。8月上旬の「平和聖日礼拝」の礼拝説教では『第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白(戦責告白)』について語り、共に考える機会が与えられました。また奥羽教区からの教区内の教会及び伝道所へのお願いもあり、戦争の悲惨さと平和の大切さと共に危険な六ヶ所再処理工場を中心とした核燃サイクル問題及び原発再稼働問題、戦争に繋がりかねない集団的自衛権行使・安全保障法制廃止問題、建設中止になったはずの沖縄辺野古米軍基地問題を想いました。8月中旬には藤崎教会に連なる方々で既に召された(お亡くなりなった)方々を覚え、神に礼拝する「召天者記念礼拝」を遺族の方々と共に執り行いました。また8月下旬にはJR五能線沿線にある北西地区の三つの教会(藤崎・五所川原・木造)の合同礼拝が藤崎教会で行われ、共に歩むことを共に想いました。

 今、牧師館の庭のプランタで種から育てた枝豆と紫蘇がありますが、時には農業経験のある方々からのお知恵をお借りしています。農家の方々が作る野菜には遠く及びませんが、社会、自然や環境について考える良い機会です。秋の収穫の時が素晴らしい実りの時となりますようお祈りします。

 

 

2016年11月19日(土)

 

10月から11月にかけては国の内外で政治や選挙等にまつわる様々な出来事があり、アメリカのフォーク・ロック歌手ボブ・ディランにノーベル文学賞が決定したりしましたが、私は出張続きということもあって、大忙しでしたが、良い勉強の時、交わりの時となりました。

まず10月上旬には日本基督教団五所川原教会での「特別講演会」に出席し、福島県で会津放射能情報センターを立ち上げ、代表を務めておられる片岡輝美氏(若松栄町教会会員)による講演をお聞きしました。そこでは国策により住民の方々に対して人体に悪影響のある原子力発電所事故によって撒き散らされた放射能によって汚染された地域へ帰還が促がされている現状、真実を見抜き、声を上げ続けていくことが大切であること等が語られ、旧約聖書創世記の最初に記された主(「しゅ」と読む)なる神がこの世界と人間をお造りになられた出来事の意味を考える事も合わせて、このことを覚える事が大切であることを思わされました。10月中旬には同教団藤崎教会創立の年と同じ1886年に創立されたキリスト教主義学校である弘前学院の「創立130周年記念式典」に出席しました。藤崎教会との関連では、創立時に本多庸一や信徒であった長谷川誠三との繋がりがあります。それに合わせて長谷川誠三を研究し、現在、本を執筆しておられる岡部一興氏(日本キリスト教史学会庶務理事・横浜プロテスタント史研究会世話人)が藤崎に来られて、教会でも調査をされ、また弘前学院大学で記念講演もされました。同氏による長谷川誠三や藤崎教会関連の論文のコピーもいただき、大変、勉強になりました。

同じ頃、「奥羽教区社会問題セミナー」が盛岡市の奥羽キリスト教センターで行われ、その中の「脱原発講演会」で政府が岩手県に核燃放射能廃棄物の最終処分地を作ることについて元岩手県知事を含めて率先して計画していたこと等への反対運動に関わる永田和夫氏(三陸の海を放射能から守る岩手の会世話人)からお話をお聞きしました。そこでは、その計画が放射能の危険性についての説明や県民との話し合いが全くなされないまま進められていたことがわかったということも話されました。これは日本国民の誰かが犠牲になれば良いとの考えによるものなのでしょうか。それに対して、同じ頃、ノーベル医学・生理学賞受賞者として大隅良典氏が選ばれました。日本の国が医学や健康面に力を入れる方向に向かっているのかどうかは、はっきりしているはずなのです。これはどういうことでしょうか。

この集会では宗教を装って、法律に違反し、他人の迷惑をまるで考えない犯罪者のような団体もあるという現状から、カルト問題に取り組む専門家の方々からお話を聞きました。最近はキリスト教でないにもかかわらず、キリスト教を語るタイプのカルトでも韓国の「新天地」等の新興宗教団体はキリスト教会を「乗っ取る形」のカルトで、それが横行していて、日本でも被害が出ているということでした。これは既成のキリスト教会を自分たちの物にしてしまおうとするグループです。これらの「社会悪」に対しては中高生あたりからの正しいキリスト教育が必要であることが話されました。

10月下旬には「同志社校友会・同窓会青森支部総会・懇親会」に同志社大学神学部で学び卒業した者として初めて参加し、その際に総長にもお逢いすることが出来ました。また様々な方々と交わりの時を持ちました。この会には同志社を創立した新島襄が寄港した風間浦村の方々も招かれ、同志社大学についてのデータブック、同大学通信“One Purpose”、同志社女子大学のガイドブック、同女子大学通信“Vine”等も配られました。その“Vine”73号の巻頭には今年の夏に私がかつて神学生時代に教会生活を送った日本基督教団京都葵教会でお逢いした中村信博氏(同志社女子大学教授)が紹介され、メディア文化史の視点から聖書を読むことについて一文を載せておられます。

11月中旬には「教区教師継続教育講座」に出席し、阿久戸義愛氏(東北学院大学講師)からカール・バルトの神学、キリスト教主義学校で何をどのように語るか等についてお話しをお聞きしました。ちなみに現在、欧米の宗教間対話においてカール・バルトが見直され、バルトの批判的継承がなされているのだそうです。同じ頃、「農村伝道推進協議会」が日本基督教団八甲田伝道所で行われ、出席しました。発題と話し合いがなされ、同教団における農村伝道の位置づけ、「小規模教会・伝道所(小さな教会・伝道所)」の将来を考えさせられました。

最近、今まで他人から借りていた書籍が何冊かあり、それらを全部、古書で購入しました。『キリスト教人名辞典』、『日本キリスト教歴史大事典』、E・ベートゲ著『ボンヘッファー伝 第1巻 神学の魅力』、塩野和夫著『日本組合基督教会史研究序説』、ロロ・メイ著『カウンセリングの技術』、土居健郎著『「甘え」の構造 新装版』、ポール・トゥル二エ著『人生の四季 発展と成熟』、日野原重明他著『夕映えの季節を生きる』、『世界文学全集〈第27〉キルケゴール,ニーチェ 死にいたる病・ツァラトゥストラはかく語った』(筑摩書房)、『同全集〈第31〉ドストエフスキー』(同書房)、『同全集〈第52〉ヘッセ』 (同書房)等です。この「キリスト教神学のウェブサイト」の中に参考文献や資料として登場する書籍もありますが、はるか昔に読んで、今は読まなくなっている書籍もあります。借りていた書籍は感謝の想いを持って藤崎特産のリンゴのお菓子を添えて持ち主に返しました。

10月には「奥羽教区性差別問題小委員会」に委員として出席しました。12月にも行なわれます。そこでは主に性差別問題、「セクシャル・ハラスメント」を始めとする「ハラスメント」の問題、LGBT(レズビアン〈女性同性愛者〉、ゲイ〈男性同性愛者〉、バイセクシュアル〈両性愛者〉、トランスジェンダー〈体の性と心の性が一致しない人〉の頭文字をとった総称)等の性的少数者に対する差別の問題等に様々なアプローチで取組んでいます。

また11月下旬には「奥羽教区臨時総会・宣教会議」が行われ出席します。そこでは、ある一人の方が教会で三年間以上、研鑽を積み、日本基督教団教師補教師検定試験に合格し、准允式(同教団の教師となる式:正式には「補教師」となる式で、教会では「伝道師」の位置付けとなる)をお受けになり、牧会伝道の道を歩まれます。主なる神の祝福を祈ります。

11月に藤崎教会では大人と子供が一緒に礼拝を行う「子供祝福式合同礼拝」や農家で穫れた農作物を持ち寄っての「収穫感謝日礼拝」を行いますが、今年は特に教会創立130周年の年で、記念事業として1986年から今までの出来事を年表にした「三十年史年表」の出版や11月下旬に藤崎教会歴代牧師の渡辺兵衛牧師(同教団八雲教会)を礼拝説教者として招いての「記念礼拝」を行います。教会の130年の歴史に信仰とそれによる人々の働き、その人々を導く主なる神の働きを思います。先日は、それによって出来た隣接する藤崎幼稚園の園児たちが園庭にある畑の芋掘り、落ち葉を集めての焼き芋をしていました。最近は落ち葉も少なくて集めるのもなかなか難しくなっています。これも環境破壊の影響でしょうか。幼稚園の園児たちは藤崎町の秋祭りにも参加します。

今、牧師館の庭のプランタでは春菊を育てています。11月中はリンゴ「ふじ」収穫の最盛期です。農家の収穫作業が最後まで守られること、日本と世界の政治の世界に平安があるようにとお祈りし、「クリスマス」を待ち望む「アドベント」(「アドベント」については雑記帳の「2009年11月29日(日)」の項目、「クリスマス」の起源については雑記帳の「2004年12月18日(土)」の項目をそれぞれ参照)に備えて過ごしています。

 

 

2017年1月11日(水)

 

本日、「キリスト教史年表(Y)」のページを更新し、「2016年」分を追加しました。昨年はアメリカの大統領選挙、イギリスの国民投票によるEU離脱問題、韓国の大統領の友人による国政介入事件、史上初の女性の東京都知事誕生を始めとする国内及び海外の政治に関する出来事があり、終わることのない自然災害と凶悪事件、戦争と平和についての過去及び将来への眼差しを考えさせられる一年であったように思います。今後の動きが懸念されることも多いと思われます。

 今年は何の記念の年なのでしょうか。また忘れてはいけない出来事から何年の年になるのでしょうか。ドイツのマルティン・ルターが宗教改革を始めて500年、ピューリタンであったジョン・ミルトンの『失楽園』が出版されて450年、カール・マルクスが『資本論』を執筆して150年、日本基督一致教会(後の日本基督教会)が創立され、東京一致神学校(明治学院の前身)が創立され、日本最初の自給教会である浪花公会(後の日本基督教団浪花教会)、多聞基督教会(後の日本基督教団神戸多聞教会)が創立され、また日本の会衆派に連なる教会の信徒たちにより「日本基督伝道会社」が設立されて140年、「日本基督教青年会」(YMCA)、岡山孤児院が設立され、日本聖公会が成立し、北星学園、同志社看病婦学校、石巻クリスチャン教会(後の日本基督教団石巻栄光教会)が創立されて130年、日本基督教団京都葵教会が創立されて110年、ルドルフ・オットーが『聖なるもの』を執筆し、平和学園が創立されて100年、ハイデッガーが『存在と時間』を執筆し、高倉徳太郎が『福音的基督教』を執筆し、関東学院が創立されて90年、ボンヘッファーが『服従』を出版し、フランコがスペイン大統領に就任して独裁権を得、パブロ・ピカソが『ゲルニカ』を描き、「日本聖書協会」が設立され、海老名弾正が没し、国民精神総動員運動が発足して80年、「死海文書」が発見され、日本ホーリネス教団が設立され、聖書学園の前身である聖書学院が創立され、長崎学院の前身である長崎外国語学校が創立され、新島学園が創立され、玉川学園が創立されて70年、ミルチア・エリアーデが『聖と俗』を執筆し、ソ連が世界初の人工衛星打ち上げに成功し、「アメリカ合同キリスト教会」が成立し、日本基督教団八甲田伝道所が創立されて60年、ジャック・デリダが『エクリチュールと差異』、『声と現象』、『グラマドロジーについて』を出版し、日本基督教団が鈴木正久議長名で『第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白(戦責告白)』を行ない、日本基督教団が「靖国神社問題特別委員会」を設置し、日本で「公害対策基本法」が公布されて50年、「日本いのちの電話連盟」が成立して40年、「日本聖書協会」による「新共同訳聖書」が出版され、「日本基督教団部落解放全国会議」が開かれて30年、マザー・テレサが没し、「アジア神学者会議創立総会」が韓国で開かれ、日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21』が出版され、日本で「臓器移植法」、「アイヌ文化振興法」が成立して20年、長崎県の伊藤一長市長が短銃で撃たれ、死亡し、日本で「9条アジア宗教者平和会議」が開かれ10年となります。何と言ってもルターによるドイツの宗教改革を記念する行事や集会や出版等が中心となる年になるのでしょうが、それ以外にもキリスト者としての働きや聖書に関するものを含めて神学者・哲学者等の重要な本が出版されたことを覚える年、科学の進歩と共に戦争責任や差別に関する歴史と出来事を覚える年となるようです。

 藤崎教会では無事に教会創立130周年記念事業、クリスマス諸行事を終え、「三十年史年表」を青森県立図書館、日本基督教団奥羽教区、同志社大学神学部図書室、国立国会図書館にも寄贈しました。今年は藤崎教会創立時の信徒で、実業家の長谷川誠三生誕160年の年でもあります。その方面での研究も期待されます。2月に北西地区で行なわれる「2・11集会」(思想・信教の自由を守る日の集会)は午前と午後、それぞれ別の場所で行う予定となっていて、今、私は「地区社会委員」としてそのための準備作業を行い、また奥羽教区の「性差別問題小委員会」に委員として関わっています。

大雪あるいは豪雪(!?)の季節がやってきました。これから毎日のように「雪掻き」を行う日が続くのかもしれません。年によっては朝と昼と夕と一日三回も「雪掻き」をしたこともあります。それでも昔に比べれば、雪の量が減ったと言われています。ところで、前回、「牧師館の庭のプランタでは春菊を育てています」と記しましたが、11月から12月にかけてあまり良く育たなかったので、冬を越して、今年の春に大きく育ったものを収穫しようと考えています。「春菊」は寒い日の鍋物や天婦羅に良いのかもしれません。「まんずめな」、「なんぼめば」、これは「大変美味しい」という意味の津軽弁です。私は津軽に来て10年目になりますが、津軽弁の6、7割は分かるようになったつもりです。「聖書は紙に書かれた神の言葉」という洒落の効いた言葉がありますが、教会の将来を想い祈りつつ、如何に聖書の言葉を読み、それに聴き、それを語るかを考えています。時節柄、皆様、お体ご自愛下さい。

 

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